伊藤計劃「ハーモニー」

読了。
第30回日本SF大賞作品。
扱う題材がユートピアディストピアであることから哲学的な作品でもある。
善とは何か。幸せとは何か。ユートピアとはそれらを最大化した世界だが、それらの定義が各個人で一定でない限り、ある社会はユートピアでもありディストピアでもあるということになる。
ネタバレ警報。
毛色はかなり違うが、狂乱家族日記12巻〜あたりで黄桜乱命が鬼が島でやろうとしたことや、エヴァンゲリオンでゲンドウがやろうとしたことを、また違う角度から描いたのが本作だと言える。
また、それらと同じく人類が新たな段階に達するプロセスを描いた伊藤計劃流「ブラッド・ミュージック」、あるいは「地球幼年期の終わり」でもある。



このインフラ。少なくともソフト面の一部はその沽券にかけてGoogleが作ってるんだろうなあ、と思う。
もちろん<大災禍>の後にGoogleが残っていれば、の話だが。まあetmlがxmlではない時点で、本作の世界は我々の世界の直系の未来を描いた話ではないのではないか、ということが推察されるが。ちなみにこのetml、htmlに似た感情をマークアップするタグが使われるが、これって意味が理解できる読み手を結構限定しないかと心配だ。まあSF者は常識としてhtmlくらい知ってるよね。……ということなのだろうか。

わたしは逆のことを思うんです。精神は、肉体を生き延びさせるための単なる機能であり手段に過ぎないかも、って。肉体の側が
より生存に適した精神を求めて、とっかえひっかえ交換できるような世界がくれば、逆に精神、こころのほうがデッドメディア
になるってことにはなりませんか?

本作の一節にある、素晴らしい考察。過去の偉人達が進化論を知らなかったために無意識に作ってしまっていた前提を打ち破っている。ただし、既に我々はDNAよりもミームに支配された存在なので、この考えがそのまま起こりうるとは思わない。これが哲学的な思想として、深く掘り下げがいがあるテーマだと感じた。



この世界は、現代日本の暗喩か。<大災禍>は第二次世界大戦。人を傷つけない社会は、現代社会。
自殺率の高さ、というのも一致するし。

世界中がやさしさに満ちた世界は主人公にとってはディスとピアとして描かれているが、大抵の人間――私を含む――にはユートピアであろうことも、この作品の面白さ。

一点、意識がなくなることというのは哲学的ゾンビ(意識は無いがそれを外部から見分けることは不可能)
になるとなるという意味であるかのような表現と、意識がなくなると人は合理的な行動を取るようになるという両方の記述が並列して行われている点に論理的矛盾を感じた。

ところで、所有物にメタデータを貼り付けて検索できるようにするThingListはめっちゃ欲しい。

誤字:341頁(part4)
× キアンは絞り出すように微かな声を発した。
○ ミィハは絞り出すように微かな声を発した。