https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11208278406
唯物論で突き詰めて考えると、自我は不滅であるとする主張。
以下のような理屈になっている。
1. この世界には物的な現象以外は無い。 2. 自我は物理状態によって生まれる。 3. 1日前の自我と今日の自我を関連付けているのは、本質的には記憶という物理状態だけである。 たとえば昨日眠りについた後でオリジナルは殺されて、代わりにスワンプマンをベッドに寝かせたとする。 そのときの「1日前のオリジナルの自我」と「今日のスワンプマンの自我」の連続性は、 もしオリジナルが殺されなかったシナリオの「1日前のオリジナルの自我」と「今日のオリジナルの自我」の連続性と 本質的には何も変わらない。 4. 可能世界のどこかには必ず自分が死んだときの記憶を引き継ぐ自我が存在する。 自我を持つ存在が死亡したとする。そのとき「死亡した自我」と、可能世界のどこかにある 「その自我の死亡の少し前までと同じ記憶をもっており、その後死亡しなかった自我」との連続性は、3で述べた 連続性となんら変わらない。 5. よって自我の連続性は、主観的には永久に不滅である。
私も同じ考えに至った……というかまあ大体「順列都市」で提唱されている考え方ではある。
この考え方をさらに進めると、永久に続くはずの自我の連続性のなかで「今現在の自我」はなぜ前回死んだ時の記憶を持たない自我なのかという問題が出てくる。
永久に続く自我が体験する時間を果てしなく長い紐だと想像したとき、前回死んだ時の記憶を持たない期間に色を塗ると、紐の端っこにある極々僅かな部分にしか色が塗られないはずだ。
にも関わらず「今現在の自我」は奇跡的にその極々僅かな部分を体験している。これは何故か?という問題。
この問題を強引に解決しようとすると、自我の連続性を発生させるには「魂」にあたる非物質的な何かが必要という素朴な二元論に逆戻りしてしまう……。
「* neta: 物質転送機で考える自我の問題」とも関連。
「* neta: 心の哲学:(グレッグ・イーガン著作『順列都市』の)塵理論による計算主義に対する反論」とも関連。