決定論と自由意志は両立できる。決定論の世界のサイコロで示す両立主義。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97
決定論の世界のサイコロは次に出る目が決まっているけれど、同時に「各目を6分の1で出す能力」を持っている。
次に出る目が決まっているということはこのサイコロの持つ能力は「予め決められた順番に数字を出す能力」ではないかという反論もあるかもしれないが、サイコロの初期位置を僅かに変えた世界では別の目が6分の1の確率で出せることを考えると、サイコロが持っているのは「予め決められた順番に目を出す能力」ではく「各目を6分の1で出す能力」であることがわかる。
同様に、決定論の世界の人間は次に実行する行為は決まっているけれど、同時に「自身の行為を決める能力」を持っている。
この能力を自由意志と呼ぶべきである。



自由意志を持っていれば決定論を破ることができるはずだという直感があるかもしれないが、決定論を破ることは自由意志とは関係ない。
決定論を破るということは、t-1の状況と、t-1の状況以外の何かからtが決定するということである。そして「t-1の状況以外の何か」とはランダムでしかありえない。なぜならば、意識が持っている「今は気が乗らない」だったり「なんでも出来る気分」だったり、果ては「いま感じているクオリア」すらも、t-1の状況の一部だからである。(人間の内面にも因果があるのは明らかである)
そして「決定論を破る能力(ランダムに未来を決める能力)」は自由意志ではない。
決定論の世界に、決定論を破って6分の1で各目を出すサイコロがあったとしても、そのサイコロが自由意志を持っているとは思えないからである。

決定論が真なら犯罪を犯した犯人に責任は無いのかという道徳的な問も同じように考えることで、予め犯罪をすることが運命付けられておりそれが不可避だとしても、依然として犯人に責任があることをスムーズに説明できる。
決定論の世界のサイコロを考えるとき、そのサイコロは6が出やすいように重心が偏っていたとしたらどうだろう。
このサイコロは次にでる目が決まっているが、6が出ることが多い。このとき、6が多く出ることの責任がどこにあるかというと当然サイコロにあるわけだ。
同じように犯罪をすることが決まっている人が居たとしても、その原因が犯人の中にあるなら責任は犯人にあるのだ。