ぼくはこの「自身の行為を決める能力」は自由意志と言うより"行動の可能性"や"結果の取り得る範囲"とかそういうものに聞こえます。
言及ありがとうございます。たしかにこれが"結果の取り得る範囲"と言えなくもないですが、わたしは「自身の行為を決める能力」は「知性」とイコールで結べるものだと考えています。
で、それだったらサイコロにも1〜6の目のいずれかを出せる自由意志があると言えてしまうのではないか?と思ったんですがどうなんでしょう。
サイコロは自分でどの目を出すか決めているわけではない? でも人間もそうですよね。
入力から何かの処理の結果として出力を行っているという点から見れば人間もサイコロも同じですが、サイコロには知性があると言えるかというとNoですよね。
知性を持つかどうかを判断するための基準は何かというのは難しい問題ですが、それでもその基準が決定論か否かという場所にあるのではないことは明らかだと思いますので、「決定論の世界・知性を持つ存在」「決定論の世界・知性を持たない存在」「非決定論の世界・知性を持つ存在」「非決定論の世界・知性を持たない存在」というものはそれぞれありうると言えます。
そして「決定論の世界・知性を持つ存在」が、決定論の世界で自由意志を持っているものだと私は考えます。