心の哲学:(グレッグ・イーガン著作『順列都市』の)塵理論による計算主義に対する反論

まあ自分は計算主義が正しいと考える立場なんですけどね。

塵理論による計算主義に対する反論

a. 計算主義が真であるならば、ある法則にもどづいて計算される「世界の状態t、世界の状態t+1、世界の状態t+2、……世界の状態t+n」は意識を含んでいることになる。
b. 塵理論により、世界状態に含まれる意識はその世界状態が誰かの手によって計算されるかどうかに関係なく、意識を持っている。つまり意識を含む世界状態の順列は無限に存在していることになる。
c. 意識を成立させるだけの計算がされていれば、意識以外の部分の世界が計算に従う必要はないはずである。
d. つまり無限に存在する世界状態の順列の中で、混沌とした世界に意識が含まれるパターンは、秩序だった世界の中に意識が含まれるパターンより遥かに多いはずである。



これらのことから、以下の主張ができるのではないだろうか。
e. 計算主義が真であるならば、我々は混沌とした世界に含まれる意識である可能性が非常に高い。
f. にもかかわらず、実際に我々は秩序だった世界の中に存在する意識である。
g. よって計算主義は偽であり、意識は計算以外の何かよって生じているものである。

この主張の弱点はdだと思う。確かに混沌とした世界に意識が含まれるパターンは多いかもしれないが、「我々のような論理的な思考ができる意識」に限れば秩序だった世界の中に含まれるパターンの方が多いのではないかと言われると、否定ができない。

http://www14.atwiki.jp/qusf/pages/64.html

私は、我々の生きる宇宙が「純粋な」塵理論に背くだけの強い経験的な証拠を生んでいると思います。というのは、この宇宙はあまりにも秩序だっており、
ただ観察者を存続させる意味を含むという必要以上に、ずっと単純で均質な法則に従っているからです。もしそんな必要最低限な世界のパターン全てが現実にあるとすれば、
混沌とした現象に囲まれている観察者の存在するパターンの方が、一様な物理法則の存在するパターンより十億倍は多く存在することでしょう。