「語りえぬもの」とはなにか?

https://note.com/free_will/n/n8e849a37ff49
「語りえぬもの」はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがその著書『論理哲学論考』で述べた概念。
結論から言うと「語りえぬもの」は、論理的真理(例えば「trueにnotを適用した結果はfalseである」など)のことである。
ここで言う「語り」は普通の会話でつかうのとは異なる意味をもつ単語なので、「語りえぬもの」=「説明できないもの」ではなく、こうやって意味を記述して説明できる。

まず「語りえるもの」を説明する。
1つの例として「2020年5月の日本は緊急事態宣言発令中である」という言明について考える。
これは「2020年5月の日本は緊急事態宣言発令中『ではない』」可能世界などあらゆる可能性を含んだ可能性の空間=「論理空間」を2つに分けて我々の世界がそのどちらに属するかを問う言明である。
つまり《問題の言明は論理空間をふたつの領域に分けて、現実の可能性をその一方に制限する》という意味で有意味である=何かを語っている=「語りえるもの」である。

それに対して、論理的真理(例えば「trueにnotを適用した結果はfalseである」)は何も語っていない。
論理的真理はあらゆる論理空間で真であるため《論理空間をふたつの領域に分けない》。
よって前述の解釈でいうと有意味ではない=何も語っていない=「語りえぬもの」である。

では論理とは何であるか。
論理とは、論理空間を作り上げている枠組み・ルールである。
(これは「AならばA」や「Aまたは非Aである」などと述べたところで表現できない)
例えば「2020年5月の日本は緊急事態宣言発令中である」は、論理空間を分割するがこうした論理空間を作り上げている枠組みが論理である。

まとめると……
・論理は、論理空間の制限という仕方で語られるような位置になく前提的枠組みそのものである。
・この意味で論理は、論理空間を分割するあらゆる明言=「語り」の領域を超える。論理は「語りえぬもの」である。

上では数学的な論理を例にしたが「語りを構成する単語が、それぞれ目的とした意味を持っていること」なども語りえぬものである。
ここで私的言語が関わってくると思う。「この植物はXXXという学術名である」は語りえるが「この植物は私的言語でXXXという名前である」は語りえない。

「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」
は論理的真理について、それが論理空間を分割するかのように議論することは無意味だという意味。